死亡届を書きました。

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こんにちは。柿喰えばと申します。離婚まで秒読み(別居中)のアラフィフ主婦です。

年が明けて少しした頃、大好きな父が他界しました。

何年か前から肺がんや肺気腫、胆嚢閉塞┄??と色んな病気を患いその度に大手術をして、元気になってきました。

昨年中は抗がん剤を月1で打ち、調子が良い時と悪い時を繰り返していました。

夏の終わり頃、調子が良かったからなのか連続が良くないからなのか、一回抗がん剤やめたんですよね。

で、冬に検査したら肝臓とすい臓に転移が見つかって┄

年は越せるけど桜は見れないかもしれない

と。

エッ┄あんなに病院通ってたのに⁉️とか

抗がん剤やめない方が良かったんじゃないの⁉️とか

色んな事を思いましたが、お父さんは「83歳か。よう生きたわ。」と覚悟をし、1人残されるお母さんの為に、少しずつ言うことをきかなくなっている身体を一生懸命動かして出来る限りの手続きをしていました。

いつも私達子供や孫が来た時は台所に立ってごはんを作ってくれていた父(材料は母が刻んで用意してました)。

12月頭に実家に行った時はまだ料理ができていましたが、食欲はあまりなく┄でも「今日は賑やかやから食べれるなあ❗️」と、箸を進めていました。

身内というのは愚かなもので、

「お父さんは雨予報でも天気を変えさせることができる完璧な晴れ男だった。これまでもとても運が良かった。仙人みたいに懐が広くて優しいお父さんならもしかしたら奇跡が起きてもっと長生きできるんじゃないか┄」

なんて思っていました。

今までは年末年始でも日帰りで帰省していた私ですがもう別居して自由の身になったので、今回は31日の仕事を終えてから娘と実家に向かい、紅白が始まる前に到着できました。

この時はテレビがよく見える特等席(こたつに座椅子をセット)に座ったままでした。

もうほとんど食べれてなくて、果物の切れ端や水やジュースを少しずつ口にしていました。トイレも尿意を感じるだいぶ前から教えてくれて、起こしてあげてから一回ソファーに座って休憩し、暫くして気合いを入れてから誰かが支えてあげながらでした。

それでも年が明けて皆でごはんを囲む時は乾杯の音頭を取ってくれて

「みんなよう来てくれた。あとは母さんを頼むな。」と、涙ぐんで話してくれました。

乾杯をする前に父が「お前正月休み終わったら一回帰るやろ。そしたらもうお別れや。自分の命の期限は自分でわかる。」と私に言いました。12月下旬に一度電話で話した時も「あと、20日くらいやな┄」とも。

私は父がもっと長生きしてくれると思っていたので娘と1月6·7日に1泊2日で金沢旅行を計画していました。しかし1日に地震があり1週間程度は大きな揺れに警戒を┄とのことで娘がかなり恐がっており、結局旅行はキャンセルしました。

父は最初「行ってみたらエエがな。」と言っていましたがそのうち「やめた方がエエかもしれんなあ。」と。

「旅行ナシにしたからまた来るよ~」と帰り際に父に伝えたらニコ~っとしてとても喜んでくれました。

そして6日の夕方にまた実家に来たらお医者さんと介護用品レンタルの方が訪問していました。前から少し話を聞いていたのですが父が

「もう入院したら家には帰れないから家に居たい。」(→9日から入院する予定だった)

と希望したので東京の兄(介護とか法的な手続きに詳しい)が奥さんと一緒に準備を進めてくれていました。後から兄に聞いたのは、

「12月の中頃はお父さんはまだ歩いてトイレやお風呂に入っていたから、まだ申請ができなかった」

のだそうです。兄が様子を見て12月下旬に地域包括支援の手配を始めてくれていました。

6日┄ベッドが来てお医者さんやレンタルの方と挨拶して┄その日の夜に薬局の方が点滴や薬一式を持ってきて下さり┄(この日父はベッドは使わずこたつで寝ました)

7日┄朝9時に看護の方が来て、点滴等の処置·トイレも車椅子に上手に乗せて連れていって下さいました。(私達は慣れていないので四苦八苦していたのにさすがプロ!)

お風呂好きだった父

思えば、7日は早朝から父らしくない行動がちょこちょこありました。5時半頃からお風呂に入りたい、と母を起こしたのです。私もそれに気が付いて一緒に連れていきました。

早朝にお風呂に入ったばかりなのに8時45分頃にまた「お風呂に入りたい」と言うのでこの時はさすがに「もうすぐ看護の人が来るからダメだよ~」と、伝えたら「そうか~アカンか~」と納得してくれました。

看護の人が帰った後も何度も何度もトイレやお風呂に行きたがり、願いをできるだけ聞いてあげよう、と私達(母·私·娘)も連れて行きその度にゼエゼエと父は呼吸が苦しくなってしまいました。疲れるのにナンデ何度も行きたがるの~?と不思議でした。

父が亡くなるまでに起こったことや思いはまた後日書きますが、この日┄7日の夜に父は天国に旅立ちました。

不思議なこと

もし、旅行に行っていたら父の死に目に会えなかったし、母が1人で大変だっただろうと思います。

それに、旦那さんにダメと言われてた訳じゃないけどまだ一緒に住んでいたら実家に帰るのも遠慮していたでしょう。

去年の夏終わり頃、娘がコロナになり一気に引っ越しが進んで完全別居状態になり、誰に遠慮することもなく実家に帰り、父を最後まで看取る事ができました。

丁度去年の今頃に、私が特急列車に乗ったり18切符で旅行した話をしていたら「ワシらも行きたいなあ、母さん。しまかぜに乗ってみたいなあ。」とワクワクしてて、「もう少し調子が良くなったらな~」と行ける日を楽しみにしていたのですが┄。

私が電車旅をするきっかけは約4年前の春┄ガラケーからスマホに変わり、YouTubeで旅動画を観るようになり、家庭内別居状態になって家に居たくなくて外に外に気持ちが向いたからでした。

もっともっと早くこの状態になっていれば、父が元気なうちに鉄道旅行ができたのかな┄。

本当に私達家族にたくさんの愛情をくれた父でした。

親孝行は早すぎて後悔することはないです。親もですが、自分も元気なうちに思ったことはやらなくては┄。

最後までお読み下さりありがとうございました。

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